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KYと言われた人は、みながみな、本当に空気が読めないのか? 

 朝青龍引退!というニュースがかけめぐったのち、
 KY(空気読めない)な朝青龍といった見出しのニュースが目についた。

 確かに、
 過去のいろいろな自由奔放ともいえる振る舞いはかなり目についていた感じがあり、
 ちょっとしたアダルトチルドレンの人にも似た言動が目立った感じもあった。

 モンゴルの人だからもともと持ち合わせて自由気ままなのかと思いきや、
 もう一人の白鳳さんはもっとおとなしく従来の力士っぽく見える。

 モンゴル出身だけではなく、
 やはり人柄によるものが大きいんだろうな~。



 この朝青龍が最後までいわれた「品格」。

 これも賛否ある感じだけど、
 土俵の上で一番重要なのは「強さ」なんだろうとは思うし、
 その強さを見せてきた横綱としては、
 土俵から降りて24時間威厳のある横綱でいろというのは、
 凡人には理解しがたいことなんだろうなぁ。

 威厳ある横綱を演じ続けなければならないことを強いられてるようなものだもんね。

 自分の素顔も本心もあまり出せない。



 この人を見ていると、
 自由奔放すぎる感じは確かに否めなくて、
 「もっとうまく見えないところでやればいいのに」と感じることも多かったけど、
 なんだか、
 つもりにつもってでちゃうほどまでにいっちゃったのかなって気もする。

 以前解離性障害っていわれてたから、
 何年も前に人格障害判定されてたようなものだし。

 人格障害って、
 自分が生きづらさを感じていて、
 周りにも悪影響を及ぼしてしまう状態だから、
 朝青龍さんの言動はもしかしたら「それ」そのものといえるかもしれない。



 自分の幸せという考え方でよく言われる、
 「人は人だから、
 なにを言われても自分の信じた道をいこう。
 他人の評価に左右されずに自分の価値は自分で決める。」
 という考え方に素直に従っていたら、
 「自分を抑えろ」といわれる伝統の世界では、
 朝青龍さんのような言動になってしまってもおかしくないのかも・・・?

 自分が彼の立場だったら、
 結果をきちんと残してるのに、
 なんで土俵の外では自由にできないのか?
 少しくらい良いじゃないか。
 自分らしい=人間らしいことがなぜいけないのか?
 という疑問があってもおかしくない気がするもの。

 そう考えると、
 自分らしく幸せに生きようとすると、
 相撲の世界やその他伝統芸能といった「由緒正しき世界」は、
 息が詰まることばかりの自縄自縛的な、
 正反対の世界観にも見える。

 あれだめ・これだめ・こうすべき・・・。

 そんな考え方ばかりの世界は、
 人格をゆがませる原因といわれるもので出来上がってる。

 古いものの良い部分を引き継ぐのは良いことだけど、
 時代は変わるのだから、
 新しい時代にも対応していかないと、
 それこそ「KY」になるんじゃないかなぁ。



 よくその場にそぐわない発言をするとKYと呼ばれることがあるけど、
 その場にそぐわないと判定するのは誰だろう?

 何が基準何だろうと考えると、
 根拠なしに安易にKYといいすぎてる気がする。

 聞いた側が「こいつ自分の意見や思惑と違うこといってるからKYだ。」としてしまえば、
 言われた人はKYになってしまうけれど、
 本当にそれが場の空気にあっていないのかは微妙なんだよね。

 人格にゆがみのある人は、
 自分の意にそぐわない相手を、
 「あなたは常識がない」
 「あなたは間違ってる」
 「あなたは変」なんて簡単にこきおろすけれど、
 「常識がない」のも「間違ってる」のも「変」だと思うのも、
 それを言った人の価値観からの言葉であって、
 客観的な定義には基づいていないことが多い。

 誰でも普通に、
 「あの人常識ないわね~。」なんて簡単にいうけど、
 その常識は日本共通の常識なのか?っていったら、
 その地方だけだったり自分の周りの人だけというのも少なくはない。

 ・・・「自分の常識は他人には非常識の可能性もある」・・・



 ある本で訃報の時の逸話を読んだことがある。

 お香典に新札を折って渡す人、
 お香典に古札で渡す人、
 コインをまぜて渡す人いろいろあった。

 ある人は新札の入ったお香典を、
 「わざわざ自分のために気を遣ってくれた人。」と評価し、
 ある人は、
 「新札でよこすなんて不幸を準備していたみたいで縁起が悪い。」と憤慨した。

 ある人はコインの入ったお香典を、
 「とりあえずはと慌てて気持ちだけでも用意してくれたその心がありがたい。」と評価し、
 ある人は、
 「サイフのありあわせでよこしたなんて非常識だ。」と憤慨した。

 表面の形にこだわる人、
 心をくみとろうとしてくれる人によって、
 評価は分かれ、
 それがその人の常識度として見られるという話だった。

 自分が常識的にと思っても、
 受け取り手によってはそれが通用しないことがあるということ。



 自分に似た感覚や考え方を持つ人を「似てるね」「気が合うね」と感じるから、
 意見があわない「考え方のあわない人」は疎遠になりがちになる。

 自分のまわりもみんな意見が同じだから、
 「みんなもそういうし自分は間違ってない。」って思っちゃうのかも。

 自分の当たり前=常識・普通と思いこんでることが案外多いからなんだろうけれど。

 自分が「常識だ」と思っていても相手に通じなければ、
 常識とは何のためにあるのか?という疑問が生じる。

 常識のもともとの形は、
 相手を不愉快にさせない心配りからなんじゃないかと思う。

 もしそうだとしたら、
 自分が信じる「常識」に完ぺきなものがないということにつながる・・・。



 人格にゆがみがでている自分のない人って、
 ディベートが好きじゃないという人が多い。

 意見交換や討論のつもりでいても、
 「喧嘩」ととらえたり、
 疲れるから嫌だといってみたり・・・。

 同調意見しか聞かない人間関係を無意識につくってしまうのかもしれない。

 反対の自己愛タイプになってしまうと、
 自分がないため、
 相手の意見を言い負かすことで「自分が正しい」と思いたがったり・・・。

 自分のない人は他人の意見を基準にして、
 意見を聞くか相手の意見を負かすかどちらか極端になってしまいがち。

 普通にいるもんね、
 鬼の首でもとったように、
 「あいつを言い負かしてやった!」って自慢してる人。

 そう言ってる人を見ると、
 本当はその人だけが正しいのではなく、
 相手を打ち負かしたと思っているのは本人だけで、
 その人が相手の考え方を受け止められるだけの余裕がなかったように聞こえたりする。

 意見が違うだけでは喧嘩ではなく、
 単なる意見交換や討論で十分なのに、
 感情やプライドが出てくると喧嘩や勝った負けたというものに捻じ曲げられる気がする。。



 あの人とは感覚があわないな~なんて思っても、
 特別相手が発達障害や人格障害だったりおかしいのではなく、
 実は自分が「変わり種」なのに気づいてないだけかもしれない。

 みんな誰かに保証されたことがなくても普通に疑うこともなく、
 自分は「普通」だと思って過ごしているものね。

 専門家に「あなたは一般です」「考え方はゆがんでません」と保証してもらってる人は、
 何人いることやら・・・?

 それでも誰もが、
 「自分は普通」と無意識に当たり前に思いこんでる。

 人格障害の人の被害者スレッド掲示板なんてみると、
 自分はまともで相手がおかしいと、
 はなから決めてかかってるコメントも多くみられるのは、
 自分基準が強いからかもしれない。

 ゆがんだ人を引き寄せるのは、
 自分にも引き寄せる原因があるとは思ってもみないものだから。



 基準は、
 自分も正しい相手も正しいかもしれないし、
 相手も自分も間違いかもしれない。

 考えは理系じゃないから答えはひとつにならないものだから。



 人にKYといわれても、
 もしかしたら相手の方がKYなだけかもしれない。

 言っちゃったもの勝ちみたいなところがあるもん。

 反論しなきゃしないで認めたと思われたり、
 したらしたで必死で言い訳してると思われるのがオチだし。



 この状況で朝青龍さんが「旅行に行きたい」といったらKY発言だと報道されたというニュースがあった。

 退職したら「やれやれ旅行にでも行きたいな~」って思っても不思議じゃない。

 自分に素直なだけの人なんだろうね、
 朝青龍さん。

 子供っぽさに少しACのにおいも感じるけど・・・。

 確かにKYっぽいな~と感じることはあったけど、
 周りは周りで過去から続く理想を押し付けすぎてる気もする。

 周りの期待にこたえなさい、
 という「品格」を求められていたのだから。

 少し時代錯誤な気もする。

 「死ね」発言はNGだと思うけど、
 ガッツポーズくらいなら愛きょうあっていいんじゃないかなぁ?

 朝青龍の「品格」のせいにしてるフシがあった気がしたけど、
 そんな「品格のない」と思われる人を横綱にした人の責任はどうなのだろう。

 自己責任だとしたら、
 横綱に任命した責任もあっていいはずじゃないのかなぁ?

 あれもだめこれもだめっていってると、
 個性が消えてなくなってしまう。

 将来、
 生身の人はいなくなって、
 ターミネーター力士誕生になるのかも?



 KYで思いだした。

 どっかの大手スーパーのキャッチフレーズは「KY」。

 カカクヤスイという意味らしいけど、
 KY自体良い意味でつかわれることが少ないから、
 センスのないキャッチフレーズだなぁと思った。



 養老さんも以前「KY」が必要だと言ってた気がする。

 KYの何がどう悪いのか。

 本当に良いか悪いか見極めたいものだね。

 自分で本当に空気読めてないなと思ったら、
 その時は謝っちゃえばいいんだもん。



 もっとも、
 そんなことでいちいち腹たてる方の人間性もどうかとは思うし。

 私は相手にKYと思われそうだというときは、
 一応事前に「おことわり」をいれた方がマシだと思って断りを入れることがあるけど、
 なにをどうことわっても、
 反応する人は反応するし、
 何も感じない人は何も感じないものなんだけどね。



 とどのつまり、
 「KY」と言わしめる原因は、
 受け取り手の人間性にあるのかもしれない。

 心の広い人ほど、
 KYだとは感じにくいもの。

 心の器の大きい人は、
 たくさんの種類の「受け取り方」を持っているから、
 「KY」と受け取らなくてもすむのかもしれない。

コメント

初めまして。初見ですが、興味深い記事を多々読ませて頂きました。
そしてこの記事に当たり、ほぼ反射的に人間失格を思い出しました。
そんな事は世間が許さないという言葉に対し、主人公が、世間とはあなたでしょう、と思うシーンです。
KYというのも、元になる価値観は、ある意味この世間なのかもしれませんね。

>みのるさん

 コメントありがとうございます。
 自分の価値観が「一般的で当たり前だ」という思い込みを、誰しも持ってしまうことが、自分は正しいという錯覚をひきおこす要因にあるのではないかと思います。
 人は自分が持っていないもの(未経験なもの)は理解できないのですから、自分とまったく異なる感覚の人に自分を理解しろという方が無理難題な様な気がしました。

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