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絶望に飲まれた時ほど見つけてもらいたがっている存在がある 

 私は、
 自分と向き合うきっかけになった人に激しいこきおろしの言葉を投げかけられた時、
 自分がどこへ向かっていいのか、
 何をしたらいいのか、
 何が出来るのか、
 存在価値さえないようにすら思っていた時があった。

 数ヶ月鬱になった後、
 自分と向き合うことで鬱から回復できた。

 鬱だった時感じていた、
 鬱の人が誰もが陥る「死にたい」「消えたい」「先が見えない」といった気持ちの時のことを思い出すと、
 その時はそれしか思いつかないといってもいいくらい「ここから消えること」ばかりの発想になってしまっていたと改めて思った。



 ボーダー気質の人も「死にたい」とか「自分が不幸なのは・・のせいだ」といった絶望的な思考がよくみられるけど、
 ここでもやっぱり鬱の人の思考とは紙一重な部分がつよく感じる。

 ボーダーラインな人たちが書いたり言ったりしているのは、
 他人の気を引く行動化の表れなので、
 本当に思いつめて苦しくなっているのとは少し違う。 

 それは、
 自分とは向き合いたくない自分の心の葛藤と、
 そんな自分に気づいてくれない他人にそんな自分を見てほしくて自分で苦しくしているだけで、
 本当に心が思いつめているのとは違う。



 逆に鬱の人は、
 自分でなんとかしようとしてもにっちもさっちもいかなくなってしまって、
 それしか考えられないくらいに思考回路が追い詰められてしまっていることが多いから、
 そこから立ち直ることがとても大変だと本当に思う。



 どうしたら鬱の闇から抜け出せるのだろうか。



 そんな追い詰められた考えにはまってしまう理由を考えた時、
 最近いいことがなかったように感じたり、
 過去にあったいいことは記憶のすみっこに追いやられて思い出せなくなっている、
 というのが鬱なのだと思う。

 人格障害の考え方からくる「死にたい」「消えたい」は、
 「自分の思った通りに認めてほしい」
 「ここでは思った通りにならないからここから消えたりリセットしたい」
 「自分が望んだ通りの幸せが感じられない」
 からという逃避的な部分が多くみられ、
 医師の見解にも、
 「本気で死にたいわけじゃなく「そこから消えたい」というほうがしっくりくる。」
 というものがあった。

 人格障害は自分が思い描く「幸せ」や「いいこと」以外はいいことだと思わない、
 鬱は「幸せ」や「いいこと」がなんなのかわからなくなって自分を見失ってしまっているしまっている、 
 ということなのだと思う。

 だから考え方のゆがみがある人は、
 リスカなどの「死ぬ死ぬサギ」でまわりを振り回すものの、
 本気で死ぬようなことは多くはないのだと言う。



 ボーダー的な考え方の絶望感は自分自身とむきあうしかないため、
 鬱なのか考え方のゆがみなのかを見極める必要がある。



 鬱に陥った人の状態は、
 一時的に酸欠に陥って「負の言葉しか見えなくなってしまう」ということ。

 辛いのは幸せの一歩手前。

 もうそこまで幸せはきている。

 あとは気づいてあげるだけ。

 それが真っ暗で見えなくなってしまっている。

 だから、
 鬱で死にたいと思ってしまった時、
 絶望してしまった時、
 何にも力が入らなくなった時は、
 死ぬ前に一度でいいから目の前で見つけてもらいたがっている、
 「自分の幸せ」を探して見つけてあげられたら空気の色を変えることができるって思う。

 真っ暗な中足元を手探りで探せばみつかる「幸せ」



 常に死にたいと思っている人ほど、
 自分の幸せをちゃんと探したことがない気がする。

 死ぬ前に一度でいいから、
 絶望して何もかも投げ出す前に一度でいいから、
 自分の幸せ探してみよう。

 ずーっと目の前にあって、
 いつでも自分とともに一緒にい続けている「自分の幸せ」が、
 たった一度、
 見つけてくれることだけをじっと待っているのだから。

 たった一度でいいから、
 自分の幸せを見つけられたらそれで十分。

 その後はずっと「自分の幸せ」が常に一緒にいるってわかるようになるから。



 「自分の幸せ」に、
 自分自身が常に見守られている存在なんだよって、
 きっと気づけるから。

 裕福な生活は、
 たくさんのお金をもたないと実現することは難しいかもしれないけど、
 幸せな生活は、
 たったひとつの「幸せだと思える気持ち」があれば、
 誰でもいつでもその時から幸せになっていける。

 まだ気づいていない「自分の幸せ」を信じよう。

 それが「幸せになる考え方」だと思うから。

 幸せは誰のそばにも必ず寄り添っている。

 足元で見守ってくれていることを受け止めよう。



 どんなに辛くても一人じゃない。

 自分の辛さが、
 あと一つで幸せになれる「幸せの一本道」で待っている。 



 読んでいるメルマガのタイトルに、
 「幸せになっちゃいけないって誰が決めたの」というのがある。

 誰も「幸せになっちゃいけない」なんて決めてない。

 もし決めてるとしたら、
 それは自分の心の中だけ。

 今が不幸だと、
 辛いと思うならなおさら、
 「幸せになれる権利を使ってない」のだから、
 今から幸せになれる権利を行使しよう。



 移動中に読んでいる松下幸之助の本に、
 「失敗は成功の基」という項目があった。

 「私の体験を通じて、
 自分の反省を振り返って見ると、
 その当時は気がつかなかったけれども、
 自分の行く道ずうっとすでに設定されていたような気がする。

 ・・・中略・・・

 自分の思う通りに出来なかった場合は、いわば失敗だ。

 ところが、おもしろいことに、
 その失敗が成功に転化している場合が非常に多い。

 そうしてみると、
 今日私がこうしていることがかりに成功だとするならば、
 私は失敗を多くしておって成功しているということになる。

 だから、
 この成功というものははじめから決まっておったのだ、
 という見方が出来るのじゃないかと思う。」   - 物の見方 考え方 よりー



 経営の神様と言われた松下幸之助氏は、
 失敗があったことは自分の運命で、
 それがあったから今があるといった受け止め方をしていると言える文章。



 自分の結果は全て「必要だから自分に起きる最適なこと」と受け止めることは、 
 成功した多くの人たちにも共通する考え方。

 今が最悪なら、
 それ以上は悪くならないのだから、
 あとは上に向かって上っていくだけ。

 今が最悪なら、
 それ以上幸せが遠のくこともないから、
 後は幸せに寄って行くだけ。

 今が最悪だと、
 絶望する状況だと思うなら、
 これから良いようにしかならないのだから、
 肩の力を抜いて気楽に行こう。

 それ以上なくすものがないのなら、
 たった一度でいいから、
 足元の幸せに気づこう。

 空っぽになった両手を幸せの花束でいっぱいにしたい。

 自分で自分を見捨てない限り、
 幸せはすぐそこで引き寄せられることを待っている。



 全ては少し先の「幸せのために起きていること」。

 辛いから幸せになるための足りないピースを足元から拾い上げよう。

 だから何が起きても「いいんだよ、大丈夫だよ。」

 そう思っていたら、
 鬱も近寄ってこないんだよ。

 だから時々でもいいから、
 自分自身に感謝の花束をあげよう。

 幸せのつぼみを拾い集めるのは自分自身だけ。

 「いつも幸せな気持ちを集めてくれてありがとう。」



 自分の心にも人の心にもたくさんの幸せを束ねて届けてあげたいね。



 こんな気づきの気持ちをありがとう・・・。

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